食品業界最前線

人類も動物も救う「細胞農業」という新基準

人類が肉食をはじめたのは、250万年ほど前と言われている。最初は、肉食動物の食べ残しや死肉だったとか。そのうち狩猟し、やがて家畜を育てて食べるようになった。そして今度は、家畜ではなくその「細胞」を育てる細胞農業で肉をつくり出す時代に突入しようとしている。細胞農業を広める活動をしている、特定非営利活動法人日本細胞農業協会理事の杉崎麻友さんに話を聞いた。前編と後編、2回に分けて紹介する。

細胞農業とは何か

今私たちが口にしている肉は、牛や豚などの家畜が牧場で育てられ、屠畜、加工されたもの。一方、「細胞農業」は牛や豚、鶏などの細胞を体の外で培養して増やすもので、室内しかもシャーレの上で育てられる。細胞農業で育てた肉が「培養肉」と呼ばれるものだ。細胞農業では、肉だけはなく、魚介類や皮革などにも適用できる。技術的には、肉に魚の栄養素、例えばDHAを入れることも可能になる。つまり、DHA入りの肉という今までにない食を創造することもできるというわけだ。

培養肉の必要性とは

杉崎さんによると、細胞農業で食品をつくる研究をしている企業は、現在世界中に100団体ほどにのぼる。特に培養肉の研究には、さまざまな社会的背景が絡んでいる。
世界人口は年々増加傾向にあり、2020年の78億人から2050年には97億人に達すると国連は予測している。そこで問題となるのが、食料、特に動物性たんぱく質の需要に供給が追い付かなくなるということだ。
他方、環境面や動物愛護の面などで、現在の畜産の在り方を疑問視する声も少なくない。そこで登場したのが、大豆など植物性たんぱく質を使った肉の代用品や昆虫食などの代替肉で、「培養肉」もそのひとつだ。

細胞農業がもたらすメリット

たんぱく源の確保以外にも、細胞農業に期待されている効果がいくつかある。まず、飼育する家畜動物の数が物理的に減るので、環境負荷を減らすことができる点だ。今まで、人間は欲望の赴くまま肉を大量生産してきた。合理性と生産スピードが重視された飼育環境やエサなどは、動物にとってストレスフルである。同時に、飼育や飼料にかかる膨大な用地や世界を駆ける運搬などは、地球にも負荷をかけ、温暖化の一因にもなっている。

次に、人間が食べる肉の量は細胞培養で増やすので、無駄に殺生する必要がなく、動物福祉の面でも貢献できるとされている。動物は安心して暮らせる環境でゆっくりと育てられる。細胞を取得する場合にも、従来の生産法と比べて、大幅に犠牲にする動物個体数を減らすことができる。
そのほか、感染症や食中毒のリスクも減らすことができるなど、細胞農業が新しい価値観をもたらしてくれると考えられている。

細胞農業を通して描く未来

杉崎さんは、高校生だった頃、何百万羽もの鶏が鳥インフルエンザのために殺処分されたというニュースを見て、「人間のエゴだ」と感じたという。「人間のために生かされて育てられ、都合が悪くなったら殺されてしまう。何かがおかしいと疑問を持ちました。動物にとって生きやすい方法はないのかと、ずっと考えていました」。やがて細胞農業と出会い、実現できれば家畜を大量に殺すことも減るのではないかと、その世界に参画することになった。

「それに、環境汚染や地球温暖化が進んだ先、例えば50年後に今と同じもの、同じ量、同じ質のものが食べられるかどうか不安があります。次の世代に、食料が枯渇した世界を残したくない。培養肉も含め、食の選択肢が増えると環境負荷も下げられるかもしれません。今はまだ、細胞を培養した肉を食べることに抵抗のある人も多いと思いますが、選択肢のひとつとして知っておいてほしいんです。食の楽しみを感じ続けられる未来であってほしいから」と、細胞農業の展望を語った。

次回後編は、細胞農業の実現に向けた世界の、そして日本の動きを紹介する。

杉崎麻友

北海道大学 農学部応用生命科学科 卒業
東京大学大学院 新領域創成科学研究科 修士課程修了
コンサルティング会社勤務を経て、独立系投資会社でラボマネージャーを務める。
2019年より特定非営利活動法人 日本細胞農業協会の理事に。